わしのまま

ラテンパーカッショニスト「とくじろう」のブログ

Antítesis

7sonoraの2ndアルバムのタイトル。

『アンチテーゼ』

何が何に対してアンチテーゼなんか。

どうもいまいち上手く説明出来てない気もするし、理解されてもない気がする、、、っていうか、そこにはあんまり興味すら持たれてない気もする、っていうのは自虐過ぎるか。

 

そもそもアンチテーゼってなんやねん? からきっと始めんとあかんのよね。

でもライブではなかなかそこまで時間も割かれからなぁ。

 

ネットからの引用やけど、

「魚とは海に泳いでいるものの総称である」
という主張(テーゼ)がある人から出されたとする。
ある角度から見ると正しいけど、その主張が魚すべてを表してる訳ではない。

そこでこの主張に対して他の主張をするのがアンチテーゼ。

 

角度といえば、これも有名な例えなんだとか。

ある同じ物体を見たAとBがその特徴を

Aは『三角形や』と主張し

Bは『円形やろ』と主張する

それぞれ違った角度から円錐を見た主張な訳やけど、この時のAがテーゼ、Bがアンチテーゼ。

ちなみに、矛盾していたふたつの主張をどちらも否定することなく、より本質的な主張へ発展させる過程をアウフヘーベン、辿り着いた答えそのものの円錐をジンテーゼと言うそうな。

 

上の2つの例えがわしは解りやすかったんやけど、そうでもないかな?

 

で、本題に戻って、何が何に対してのアンチテーゼなんか。

 

このアルバムのタイトルを考えるのに随分考えた。

いくつも候補をボツにして辿り着いたんがアンチテーゼ。

 

今回は大半の曲の歌詞をわしが書いてるっていうこともあるし、出揃った曲全ての歌詞や音楽を眺め回して、その結果導き出した最大公約数とでも言うんかな。

少なくともわしが歌詞を書いた曲たちの。

すなわち、それぞれの曲が何かの、また、アルバム自体が何かのアンチテーゼやと言えるな、と。

実際今回のアルバムはかなり実験的なものにしてるし、少なからずそういう意識があって歌詞も書いてるから。

7sonoraというユニット自体が日本で言うラテン音楽っていうもんに対するアンチテーゼやとも思うしね。

 

例えば解りやすいところで、『Rezo』という曲。

この曲は般若心経とOdudua、つまり仏教とSanteríaを融合させた曲。

使ってる言葉はサンスクリットスペイン語、ヨルバ語、日本語。

4つの言葉を使って1つのストーリを展開させてるっていう曲なんやけど、何に対するアンチテーゼなんか。

 

拝玖的、拝米的、拝欧的な風潮っていうのんかなあ、、、

ご多分に漏れず自分もそのひとりなんやけど、だから余計、かな。

 

一生懸命よその国の音楽なんかやって歌ったりしてるけど、どれだけ日本のこと知ってる?

般若心経のひとつも諳んじれるん?

神社に行ってちゃんとした作法でお参りが出来る?

祝詞の意味は知ってる?

そんな自問自答の中から生まれた曲なのよね。

 

アンチテーゼというよりは問題提起に近いからむしろテーゼになるんかな。この曲は。

歌詞の内容は人生に対して懐疑的になって苦しんでる主人公を釈迦の弟子シャーリープトラになぞらえて、釈迦が諭し励ます、という作りになってるんでミクロの視点で見るとアンチテーゼ云々とは無関係なんやけどね。

今回のアルバムのウラのテーマでもある日本人としてのアイデンティティーというものも内包しつつ、いわゆるラテン音楽と言われてるものに対して新たな角度からラテン音楽を再提示してみる試み。そういう意味でこの曲はアンチテーゼなんよね。やっぱし。

 

 

デジタル配信で曲をダウンロードして聞くことが増えて、CDを買って歌詞を見ながら曲を聴くということが少なくなって来ているこの頃。

今も昔も歌詞を書く者は細部にまで気を配って書いている。

『てにをは』ひとつで意味合いも響きもまるで変わって来るもんね。

単語の選び方にしても。

『街』と『町』では響きは同じでもイメージする規模がまるで変わって来る。

さらに漢字で『町』にするのか『まち』とひらがなにするのかでも。

残念ながら聴感上は同じ『マチ』やし、ダウンロードで歌詞も見ずに聴いているだけでは分からへんよね。その違いって。

でも書き手は必ずどの『マチ』なのかをイメージして書いてるわけで。

 

今回のアルバムは全体的に日本語の割合が高くなっているけど、その部分にはかなりこだわって書いている。

これまでスペイン語で歌詞を書くことが多かったけど、日本語の歌詞を見て聴いて育って来たからなぁ。

 

『ぼくのともだち』では歌詞を見てもらえれば分かるけど、日本語の部分はすべて平仮名で書いている。

これは小学校に上がるか上がらんかくらいの男の子が主人公だから。

小学生、中学生でいじめを苦にして命を絶つ子のニュースをよく目にする。

自分もそれくらいの頃に経験があるし、思い詰める気持ちもよく解る。

きのうまで友達やと思とった子が翌日なぜか口も利いてくれなくなったり。

子供の頃は学校が世界の全てやからなぁ。

大人は何とでも言えるけど。

 

この歌の主人公の男の子もそんないじめを経験するんやけど、それでもきみのことを昨日と変わらず友達やと信じてるから、おかしな歌を歌ってみたり、おどけて見せてみたり、なんとかこっちを向いてもらおうと頑張ってみるねんね。

『きょうも あすも つぎのひも きっとともだち』と信じて。

わしはそんなに強くなかったから学校をよう休んでたけどね。

 

歌詞を見てもらったからって↑みたいな内容やということを感じ取って聴いてくれる人がどれくらいいるか、それは分からへんけど、少なくともわしは幼くして命を絶つ決意をした子たちへのオマージュとしてこの曲を書いた。

 

すべて平仮名にしていること、一切むずかしい言葉は使わないこと、そしてこの曲のテーマ自体が、『Rezo』同様に新たなラテン音楽の可能性を提示する1要素としてアンチテーゼなわけです。

『笑うきみ』を見るために歌う『ゆかいなメロディー』としてエレグアやコンパルサは登場するけどね。。。

 

 

なんとなく、ラテン音楽=ハッピーな音楽という公式でみんな見てるような気がするのは気のせいかなぁ。

我々の親世代がよく聴いたパンチョスらのラテン音楽はそうでもないけどね。

マイナーの曲で有名な曲も多いし。

 

ま、スペイン語ということで内容が解らんということも大きいんやろうけど。

それに対してもおおいに不満で、ならばということで明るい曲調に重いテーマで書いたる、と思って書いたのが『A Cantar』

前回のアルバムが出てすぐの頃に書いた曲なんで、もうかれこれ4〜5年になるかな。

 

すっかりスマホが普及して、電車に乗っても街を歩いてても、スマホスマホ

便利になった分引き換えにしたものは大きいと思う。

便利やし自分も使うし、黒電話の時代に戻れとは思わんけど、空恐ろしくなるよね。

急激に想像力が落ちてる気がするし、情報が溢れ過ぎてて思考停止してる気がする。

知らんうちに大事な何かを失って、気が付いた時には手遅れになってしまわんければいいんやけど。

 

ラテン音楽を好きで聴く人ならCantar というと『歌う』、Gozarというと『楽しむ』ということは知っていると思い、わざと『謳歌する』、『享受する』というもう1つの意味でサビの歌詞にしています。

『真実を謳歌しよう 自由を享受しよう』

 

サンバをスペイン語で、尚かつ風刺的な内容のものを歌ってみる。

わしなりの、7sonoraなりのサンバへのアプローチ。

内容的には大きな流れに流されつつあるこの国への問題提起、音楽的にはラテン音楽やサンバへのアンチテーゼという具合ですな。

 

 

『A Cantar』と同じ時期に、同じような内容、趣旨で書いた曲が『Busca lo tuyo』

これは実験的というか、お遊びというか、いろんな事を試してみた曲。

日本語の歌詞も敢えて昭和のニオイのするものを使ってみたり、サビではスペイン語スペイン語風に聞こえそうな関西弁を混ぜてみたり、スペイン語のラップを入れてみたり、ファンクっぽいアレンジをしてみたり、ホーンセクションのアレンジをしてみたり、、etc

元々ライブでもやっててんけど、CD用にアレンジをいじり過ぎてなかなかライブではやりにくくなってしもたっていう。。。

武井さんのソロ同様に、曲の中程から登場するななちゃんのカッティングギターも見どころのひとつ。

 

 

『Busca lo tuyo』と真逆のタイプにしてやろうと思って書いたのが『うらら』。

歌詞を聴いて情景が目に浮かぶ。

それが歌詞を書く際に心掛けていることのひとつ。

それに加えてこの曲では、柔らかいイメージの、わしが美しいと思う日本語を極力沢山使って、特別なことは何も起こらない日常を書いてみた。

当たり前のように繰り返される何気ない日常、それそのものが幸せやと思うしね。

 

曲の冒頭の鳥の鳴き声や生活音も実際に録音したものを使ってるんやけど、ここにも言われんと気付かんようなこだわりがあって。

冒頭と最後に登場するキジバト

どうもむかしっからこのキジバトの鳴き声を聞くと『ああ、平和やなあ』って感じるねんね。それが暑くも寒くもない初夏の頃の昼下がりはとくに。

だからこの曲の冒頭と最後にはそういう意味の平和の象徴として登場させてるわけ。

で、よく聴くと、冒頭と最後では距離が違う。

冒頭よりも最後の方が遠くで鳴いてるねんね。

これで時間の経過を表現してみてんけど、、、だれが分かんねん!(汗)

ま、それくら細部にまでこだわってるってこってすわ(笑)

 

この曲もフォーマットやリズムはラテンやけれども全体的な印象はボサや歌謡曲っぽくって、これもラテン音楽っていうものに対するアンチテーゼ、新たな提案ですね。

 

 

そしてこのアルバムの中である意味一番の挑戦、実験だったのは『あなたのいた風景』

フォーマットこそボレロを使ってラテンやけど、完全に日本語のバラードやし。

ふだんスペイン語で歌うのが当たり前で、ほぼ日本語で歌って来なかったボーカルNana Cantarinaというメンバーに対して、わしからの新たな提案だったのがこの曲。

 

アンチテーゼとは、で冒頭に引用した

『魚とは海に泳いでいるものの総称である』

ではないけれど、

Nana Cantarinaとはラテン音楽スペイン語で歌う歌手である』

というイメージや事実に対して、日本語でこの手の歌を歌うことで彼女自身がアンチテーゼを提示出来るんやないか、また、表現力が広がって歌手としても成長出来るんやないか、というわしの思惑から『歌ってみぃへん?』って提案してみた曲やったんです。

やーそのおかげで聞きやすい曲になったけど、わしが付けてたコードではまるでフォークソングで、余計にななちゃんのイメージではなかったからねぇ。

 

歌の内容的にはまったくアンチテーゼっていう側面はなくて、素直なバラード。

 

1st アルバムの録音が2012年。震災の翌年。

時間に余裕があれば曲を書きたかったんやけど、時間的にそんな余裕もないままで録音。

その後もやっぱりどうしても震災をテーマにした曲が書きたくて。

 

自分の実家が淡路の震災で潰れてしまったってこともあるし、その後両親がその場で家を再建するのか離れるのかでさんざん悩んだ経緯も間近で見て来てるし、生まれ育った故郷を去る決断をすることがどれだけ辛いか、理解しているつもりなんで。

たとえそれが自分の生まれ育った土地でなくても、自分が心から故郷と思える、感じている土地であればその思いは同じなんやないかな。

この歌の主人公も。

 

この歌の主人公には実際のモデルがいて、彼女のことを思い書いた曲です。

彼女自身の身の上話ではなく、彼女をモデルに書いたフィクションですけどね。

けっこう細かく主人公の人物像を設定して書いた歌詞なので、歌詞には書いていない彼女の人生についてのあらすじや、思い・感情を録音前にななちゃんに渡したりと、そんな曲です。

先月東北を訪ねたのもこの曲のイメージビデオの素材の撮影とおおよそ20年ぶりに彼女に会うのが目的でした。

 

この曲の主人公は東北のとある町に嫁いだ女性ですが、彼女と同じように断腸の思いで故郷を離れた人は阪神・淡路の震災の時にも大勢いましたし、彼・彼女たちがどんな思いで新たな土地での生活を送っているか。。。

そのことを忘れてはいけないと思うし、自分にも見送った友人や先輩があるので、彼らの分も生きて行かんと、と常々よく思うわけです。

 

ちなみに、冒頭のチェロの独奏は19世紀に活躍したキューバの作曲家Manuel Saumellの『Ayes del alma』という曲の一節なんですが、故郷を離れる主人公の気持ちを代弁するのにこんなに相応しい曲はないと思い、『魂の悲鳴』というタイトルのこの曲を使っています。

 

それぞれに人や土地に思いを馳せてこの曲を聴いて感じてもらえると本望です。

 

 

わしが作詞を手掛けたもう1曲『Tu Risa』とななちゃんの『La ola suave』,『Riquitiki』は 個別に何かのアンチテーゼということはないんやけど、いわゆるラテン音楽と言われているものに対して、『そんなんばっかりがラテンやのうて、こんなんも新しいラテンのカタチやと思うけど、どう?』というアルバム全体を通して提示しているもののひとつ、というところか。